アメリカの夜

世間様の休みとわたしの休みとは基本的には連動していないので、ゴールデンウィーク中も仕事したり休んだりそのあいまに軽く風邪をひいたりと微妙にあわただしいわけなのですが、おととい、新文芸坐で、チャールズ・ロートン「狩人の夜」が上映されたので、やはりこればかりは逃すわけには行かず、足を運んできました。

4月30日と5月4日、各日1回ずつしか上映されず、満席必至かと思われたものの、意外にも空席ありで、まったく、映画史とやらもなめられたもんだと思わざるを得ません。そしてまた、これをかけても満席にならないのなら、映画館という商売もなかなかしんどいもんであるなあと心配にもなり、だからこそ、こういう場所で地道におこなわれる発言にもいくらかは意味?希望?があるのかもしれませんが……。いや、ないのか?

この映画を初めて見たのは10年くらい前、たしかフジテレビで夜中に放送されていたのを録画したもので、でした。いくら深夜とはいえ、地上波で白黒映画が放送されることがあるなんていまからでは考えられないことで、いつからそういう風になってしまったのかについてはまたそのうち考えてみたいと思うけれど、とにかくそのとき一度だけ見たこの映画に再会したのは2008年のやはりこの時期、渋谷のシネマヴェーラでの上映のときでした。

そのとき以来、2年ぶりに見るにあたって、この映画の図式を読み解いてやるぞ、とある程度身構えて取り掛かってみました。この映画の不思議なところは、全部が全部、図式でぱたぱたと読み解けそうでいて、それでいて陳腐さに陥ることがないことに(も)あると思われ、そうしたものを世間では名作と呼ぶのでしょう。

2年間ですっかり忘れていた部分は、ロバート・ミッチャムに感化されたシェリー・ウィンタースが説教をする集会での狂信っぷりだとか(かがり火が燃えていたりして、怖い)、あるいは、つかまったミッチャムをつるしあげろとばかりに暴れる善男善女の描写だとか。そもそも、ミッチャムがつかまって以降の展開がすっぽり記憶から抜け落ちていたのには、われながらびっくりしました。

この映画が極度にキリスト教の色彩を帯びていることはいまさらわたしが指摘するまでもないものの、なんとなくの直感として、そこに触れずに、この映画の映像(もちろんそれ自体、とてつもない強度を持っているものです)だけを論じてみてもあまり意味がないのではないか。そもそも、なぜミッチャムは伝道師を装っているのか? 未亡人を殺して歩くのは彼の手段なのか、目的なのか? この映画では、子供たちの隠し持った大金をめぐるサスペンスが観客の目をくらませていますが、ミッチャムの本当の目的は金ではないのではないか?

そして同じくらい謎な原理でもって行動しているのが、リリアン・ギッシュ演じる世話焼きの老婆です。夜、虎視眈々と襲撃の機会を狙うミッチャムが歌ううたに、ライフルを構えてポーチで待つギッシュが、いつしか加わってくる。身寄りのない子供たちを庇護する老婆と、偽伝道師とが、まったく同じ音楽文化を共有し、自然に同じ歌を口ずさんでいる。英国出身のロートンにとってアメリカとはつまり、なにかにつけて、いたるところに、キリスト教が顔を出す世界であり、彼にとってそれは恐怖以外の何物でもなかったのではないか? 

(ちょっといま思い出せませんが、イギリス民謡と、白人のと黒人のとをひっくるめたアメリカ民謡、神様が出てくるものは、圧倒的に後者のほうに多いのでは?)

こうした、分析以前の仮説を開陳してみたところで、「狩人の夜」という映画の魅力に迫っていることにはまったくなりませんが、機会があったら一生に一度は見ておくべき映画であり、、単に有名で/古いだけの映画とは一線も二線も画す、生きてうごめいている名作ですので、未体験の方はぜひ。ただし、いままでに2回出た国内盤DVDは、どちらも、オリジナルのスタンダード・サイズを不自然にトリミングしているもののようです。イーベイなどで、スタンダード・サイズ/英語字幕つき/リージョン・フリーの中国盤が安く買えますので(このあいだ買いましたら、送料込みで600円とか700円でした)、どうせならそちらをおすすめします。
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by soundofmusic | 2010-05-06 01:31 | 日記 | Comments(0)


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