d0000025_1743674.jpg10年くらい前から断続的に、日本がいまの日本と違った状態になって、とてもじゃないが住めなくなる、そんな可能性について考えていた。たとえばある国が他国によって侵略を受けると、どうなるのか。そういうことは歴史上では珍しくないし、映画にもよく描かれているけれど、ゲリラやパルチザン、といったものは日本映画にはあまり出てこないので実態がイメージしにくい。それともやや関連して、フランスの映画人たちは困難な時期にあの大作「天井桟敷の人々」を撮りあげたのだ、と聞くと、関係ないわたしまで誇らしい気分になったりもする。

もしわたしたちが生き延びることができるとするならば、それは必ずや新しい表現を産み出すはずで、もっとも大半はゴミとたいして見分けがつかないものだとしても、ゴミのなかから宝石を捜すことってのは、なぁに、ふだんからやっていることじゃあるまいか。すでに猛烈な勢いで、たくさんの言葉が渦巻いているのが見える。それはたいていは混乱していて、そしてときどき美しい。

わたしはかつて、「お金を使わない日はあっても、言葉を使わない日はない」というフレーズを思いついた。もちろん、資本主義社会に存在しているからには、お金を使わないとしてもあくまで表面的な意味合いにおいて、ではあるけれど。家が流されて、家族がいなくなったとしてもわたしは避難所までの道を(日本語で)訊ねるだろうし、いくらかおちついてTVを見たら、もしかしたら♪ぽぽぽぽーん♪と口ずさむかもしれない。映画は、見るよりもむしろ、撮りたくなるような気がする。だから避難所に届けられる荷物の隅には、ヴィデオ・カメラが入っていてほしいとも思う。

ここから先はかなりありえないことであることがのぞましいこととしての想像。数十万人の単位で日本からどこか外国へと移住が始まったとする。現在の日本政府の難民に対する態度の冷たさを見る限り、日本人を受け入れて入れる国があるとは思いにくいのだけど、もしそうなった場合、それは日本語の地理的・概念的拡張を意味するだろう。わたしはつねづね、日本国外にも日本語だけで生活できる環境があったらいいなあ、と思っていたのだ。

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これが前後の断絶なのかそうでないのかは、まだわからないと思っている。もちろん、これを機にいろいろなことが、さまざまな規模で、変わっていくのは間違いないにしても、あるとき・ある出来事を境に、すっぽり世の中が変わる、ということについては、わたしはやや懐疑的。と同時に、ここ(要約しにくい文章……)で書かれていることにもかなりの程度賛成はするのだけど……。

前回書いたレッド・ツェッペリンを、いま、セックス・ピストルズと聴き比べてみたらどうか。どちらも70年代のロック、として、割と近似したものとして見えると思う。理由としては、両者とも、現在からの距離的な見分けがつきにくいくらい過去へと押し流されてしまったということがひとつ。もうひとつは、こちらがより重要なんだけど、時間の流れは粘っこいので、なかなかすぱっと切断することはできない。そのときは切断されたように見えても、しばらくたつと、打ち込んだはずの楔が、前後をつなぐ標識にしか見えなくなってしまうことが、よくある。

蛇足ながら、ことばについて最後に。「サウンド・オヴ・ミュージック」のアンケート冊子でうちの弟くんがフアナ・モリーナについて書いてくれて、それを参考にして買ってみたらたいへんもろやかでかわいらしくて気に入ったのですが、言いたいことがひとつあって、この音楽にアルゼンチン音響派なんてとっつきにくそうな名前をつけた奴は誰だ、出てこい! ということなのです。難しそうだと思って敬遠しちゃってたじゃん。責任とってほしいよ。ただちに。
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by soundofmusic | 2011-03-27 17:07 | 日記 | Comments(0)


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