反面教師

d0000025_21385190.jpgいーぐるのブログに、当日の様子と、わたしのこの感想に対する反論が載っています。

○また、当日参加しておられたSHOHさんからコメントをいただきました。本記事の最下部のコメント欄もあわせてお読みください。

(以上、8/24追記)


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四谷にいーぐるっていう、おそらく東京で5本の指に入るくらい有名なジャズ喫茶があって、そこでわりとしょっちゅう連続講演っていうのがおこなわれてます。特定のミュージシャンとかジャンルとかについて、詳しいひとが、音源をかけながらお話をしてくれるというもの。わたしは原田和典がらみのときに何度か行っただけなのですが(そんときの感想)、最近ではジャズにとどまらず、ヒップホップとかブラジル音楽とかの回もあって、その雑食性には勝手に好感をもっていたところでした。

で、土曜日、その講演のひとつとして「日本のポピュラー音楽受容史」というのがあったので、行ってきました。これは全4回シリーズで、わたしが行ったのはそのうちの第3回。時代でいうと60年代後半から80年ごろが中心になっていて、次回への前フリ的にその後のものもかかる感じでした。話し手は杉原志啓。

「日本のポピュラー音楽受容史」というタイトルから、わたしはごく自然に、欧米のそれをどう日本語表現へと落とし込むかの歴史、みたいなものを想像=期待していて、それは間違いではなかったのですが、杉原志啓の態度は終始一貫して、日本語のポピュラー音楽は欧米のそれの模造品ないしは代替物である、という立場に立っているようでした。だから、どれだけ上手にマネできたか、というあたり(だけ)が評価の尺度になっている。これは音楽を聴くうえでたいへん貧しいやり方だと思いますし、そういう人間がする音楽の話を(金を払って)聞くのは、正直言って不快な体験以外の何物でもありませんでした。

ここでわたし自身の立場を表明しておくと、わたしにしたって普段はおもに英米のポピュラー音楽を聴いてすごしている人間です。日本産のポピュラー音楽の購入量は、全体の15パーセントくらいで、この割合はここ10年くらいほぼ変わっていません。これには、日本産のポピュラー音楽の(中古)CDの値段が英米のそれ(輸入盤)と比べて割高だというのも関係してるとは思いますけど。んで、そういうわたしが聞いていても、この日の杉原志啓の口調と思想は、お前いったい何様だよ、と言いたくなるものでした。

まあ、一応こちらから歩み寄るならば、おもに「本物の」洋楽を聴いて育ち、音楽評論家になった身で、無邪気に日本語のポピュラー音楽を称揚するのは沽券にかかわる、という事情もあるのでしょう。そういうテレがあることはじゅうぶんに聞き取れましたし、なんだかんだいってもチェッカーズを3曲(「ジュリアに傷心」「ワン・ナイト・ジゴロ」「ハート・オヴ・レインボウ」)もかけるというのは、嫌いじゃないんだろうなっていうのはわかります。しかし、好きなものについて話すのだったら、自分の身を安全地帯において他人事みたいにやるのはよされるがよろしい。

固有名詞の細かい間違い(「ジョルジア・モローダー」「ジュリアに“しょうしん”」)や、事実誤認(渋谷系の勃興をタワーレコード渋谷店から、と言ったり)も気になりましたが、そのへんは誰でもやることですから大目に見ることにします。わたしがこりゃダメだなと感じたのは、杉原志啓が音に向き合う態度が、リアル・タイムでそれを聴いたときから更新されてないことが多かった(すべての瞬間そうだったとは言いません)ことです。要するにここで話をしているのは音楽評論家ではなく、単なるひとりのおっちゃんがあいまいな記憶にもとづいた昔話をしているだけなんじゃないか。わたしの推測ですが、そうした態度の根底にあるのは、日本語のポピュラー音楽に対する侮蔑なのでしょう。

たとえば杉原志啓は山本リンダの「どうにもとまらない」について、サンタナやBS&Tのパクリであるというようなことを言いました。当時は「どうして日本人は臆面もなくこういうことをするのかと思った」とも。教科書的にはそのとおりなんですが、いーぐるの再生装置で聴くこの曲のイントロと間奏のパーカッションのアンサンブル、そしてカウベル(だったかな)だけを前に飛び出させるように置く定位には否応なしに興奮させられます。このひとはそういうこと思わないんだろうか、というのがまず疑問ですよね。ちなみにこれは1972年のNHK紅白歌合戦の映像ですが、こちらはいーぐるで聴いたステューディオ録音よりもさらにテンション高い。カメラワークと編集(というか生放送だったらスイッチングか)も大胆で、見ほれてしまいます。1分半なのでぜひ見てみてください。

もう一例だけ挙げると、欧陽菲菲「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」(YouTube)が、チェイスの「黒い炎(Get it on)」(YouTube)のイタダキであるという話も出ました。これも、はいはいまったくそのとおりですね、と申し上げておきますけど、聴き比べると、「黒い炎」はぜんぜんたいした曲ではなくて、むしろここから、キャッチーなホーンのフレーズを抜き取って使ったセンスを評価しないでどうするよ? と言いたい。あきらかに「恋の追跡」のほうがいい曲なわけですし、曲名から考えると、これはサンプリングや本歌取りのようなものとしてとらえるのが正しいのではないか。

場所がジャズ喫茶であり、客もふだんいーぐるに来ているひとたちが中心だったと思われますので、要するにわたしが場違いなところに紛れ込んでしまったのが悪かったのでしょう。ふたりくらい、やや若めの笑い屋みたいな奴らがいて、そいつらの態度も腹立たしかったです。

ただしもう一度言うと、いーぐるの再生装置で音楽を聴く体験は、それがどんな音楽であってもだいたい素晴らしいもので、ことに、自分がよく知っている(つもりの)曲ほど、驚きは大きいです。南沙織「17歳」のA&Mっぽいテイスト(+ギターにはスカっぽい香りもあったなあ)だとか、ビージーズ「ステイン・アライヴ」のジャストでムダのないリズムの気持ちよさだとか。

音楽について話すとき、知識をひけらかしたり斜に構えたりすることのバカバカしさ、不毛さをいやというほど思い知らされました。反面教師にしたいと思います。
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by soundofmusic | 2013-08-18 21:40 | 日記 | Comments(3)
Commented by SHOH at 2013-08-24 02:21 x
初めまして。僕も当日イベントに参加していた者で、後藤雅洋さんのブログから飛んできました。

突然こんなことを言う失礼をお許しいただきたいのですが、やはり今回の件は何かの誤解ではないでしょうか。

僕は連続講演に3回とも参加していましたが、杉原さんは日本のポピュラー音楽の独自性を評価していましたし、後藤さんがブログで書いているように「杉原さんの講演は…実は日本の洋楽受容は、その「翻案のオリジナリティ」によって独自の優れたものとなっている、というのが基本的立場です」というのが的を得ているかと思います。

また、山本リンダ"どうにもとまらない"に関して、『当時は「どうして日本人は臆面もなくこういうことをするのかと思った」』と実際に言ってはいましたがその後にいま聴き直した視点から評価していましたし、欧陽菲菲"恋の追跡(ラブ・チェイス)"に関しても「チェイス"黒い炎"はぜんぶは聴けないし"恋の追跡"のほうが良い」といった旨のことを喋っていましたよ。

講演の良し悪しとは別に、事実関係の部分で齟齬があるように思えたので書かせていただきました。失礼します。
Commented by soundofmusic at 2013-08-24 14:57
SHOHさん、丁寧なご指摘、どうもありがとうございます。

わたしも適宜メモをとっていましたが全部ではないので、欧陽菲菲のほうがチェイスより……の発言については忘れていました。すみません。

また、山本リンダに限らずほとんどの楽曲に対して、杉原さんが、いったん落としてそれから持ち上げる、という話法を採用されていたことは認識していますし、わざわざ全4回シリーズで日本のポピュラー音楽をけなすことがこの講演の主目的であろうはずもないことは承知しております。

にもかかわらず、あの日最初から最後までお話を聞いていて、どうしても違和感が拭い去れませんでしたので、こうして感想を書いた次第です。わたしは杉原さんについては名前を存じ上げているだけでしたし、過去のこのシリーズも不参加でしたので、そのへんの前提条件を把握していなかったからというのはあるかもしれません。ただし端的に言って、わたしにはあの日の杉原さんのお話は、表面的には日本のポピュラー音楽の独自性を評価しているようでありながら、好きなものの話をしているようにはどうしても聞こえなかった、ということです。
Commented by soundofmusic at 2013-08-24 14:57
(続き)わたしはなにも、盲目的に褒めるべきだ、と言っているのではありません。ミック・ジャガーについて、デタラメなようで実に修練を積んでいる、と指摘したのは卓見だと思いましたし、「ステイン・アライヴ」のときに、この時代に戻りたい、と嘆息したときなど、その語りに心を動かされました。しかし、肝心の(ですよね?)日本のポピュラー音楽を語るときの言葉には、どこか遠慮がちというか言い訳めいたものがほぼ常にまとわりついていたように聞こえました。ああやっぱり素直に好きとは言えないんだろうな、とそれをもって判断しました。


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