経済II

書き進むにつれてこのおかしな島は存在し、私自身に見えるようになった。 ― 小島信夫「自作『島』について」

たしか7月か8月、新作の公開にさきがけた映画監督Mの特集上映に、作品がほぼ日替わりだったため週に何日か通っていると、2回に1回くらいM本人がトークのために登場した。最初は物珍しかったものの、毎回毎回同じ内容を繰り返しては新作への期待を強要する語り口にヘキエキし、ある月曜日にいたって、「今日は来ないつもりだったんですけど、月曜って興行的にいちばんきびしいんで、気になって来ちゃいました」と、いかにも彼の民族的ルーツを示すような広がったエラで風を切りながら話し始めたもので、その晩、家に帰ってすぐ、10数人の知人に「ウザ松に要注意!M江監督ウザいです!」とBCCでメールを出した。すると数日後、ひとりから、「わたしのところに、監督からメールが来ました。ブログに感想を書いてくれてありがとうっていう趣旨なんですけど、わたし感想書いたけど別にホメてないのに」との内容で、さすがウザ松、と思わされた。

次にウザ松を見かけたのは山形国際ドキュメンタリー映画祭においてで、正確には、香味庵の入口に近づくと、姿を見かける前にウザ松が彼独特のウザ口調でしゃべっているのが耳に入ってきたので無視して香味庵に入り、ハルトムート・ビトムスキーにギー・ドゥボールは映画ですかねとTが訊ねると、HB氏は「スクリーンがあって、そこに上映されていれば、それは映画だ」と、ウザ松には思いつかないであろう明解さで答えてくれたその山形では、ウザ松の姿は何度か見かけたし、道ばたですれ違いもしたし、東京に戻ってきた翌週、東京国際映画祭に行くと、ウザ松が他人の映画のトーク・ゲストとして呼ばれており、その映画を見たわたしは自動的にウザ松のトークを聞いたのだったが、その山形で楽しみにしていた特集のひとつが「シマ/島」で、その中の吉増剛造「奄美フィルム ― ミホさん追悼」とソクーロフ「ドルチェ ― 優しく」を見たいと思った。しかしスケジュールの都合でそれらを諦め、かわりに菊地周「風土病との闘い」を見た。1961年に作られたこの短篇は、南西諸島のどこかの小島の風土病の記録で、奄美大島の名瀬から船で渡っていく当の島の名前と場所は明示されない。陰嚢水腫と呼ばれるその病にかかると、陰嚢に水がたまってスイカかサンドバッグくらいの大きさになり、行住坐臥にいちじるしく支障をきたす。

もうひとつわたし(1973-2012?)が目をひかれたのは陰嚢水腫とは関係なくうつっていた島の女性の手元で、わたしは彼女の親指は外側にほぼ90度曲がっていたのでわたしはなつかしいものを見た。というのは、わたしの祖母(父の母)であるコト(19XX-2005ごろ?)の親指がまったく同じ曲がり方だからで、我が家ではその折れ曲がりの理由は祖母が若いころにおこなっていた機織りのためであるとわたしは言い聞かされてきた。わたしにはそれを疑う理由はなかったし、映画の中の島の女性の家にも機織りの機械があった。しかしいかなる経済活動でも、指が切り落とされるならまだしも、長い時間をかけて直角に曲がるのは信じがたい。

祖母は奄美大島のほぼ最南端に位置する蘇刈という集落の出身で、そこからさらに車で数分行くと、今年の夏の皆既日食の際に酒井法子さんの夫婦が泊まったとされるホテル、マリンステイション奄美があるのだが、皆既日食が見られるのは島の北部に限られているのに、なぜ酒井さんたちが車で2時間もかかる、島内のいちばん遠い場所に泊まったのかは謎だ。おそらく日食に来たみなさんがキャムプをしたり火を焚いたりしただろう島最北端の笠利崎は浦島太郎伝説の発祥の地でもあるらしく、先端近くに大きな亀の像がある。わたしの送った亀の写メを見たCからは、場所はどこかという質問と、うつっているおばあちゃんがいいわ~との感嘆が返ってきた。亀の頭をなでたおばあちゃんはわたしの母・公子(1942-2012?)で、母は亀の頭をなでた翌日、食事をしながら「お金があるのがいちばんいい」と言い、食事のあとには「これだけ食べても4人で5000円以下!」と驚嘆した。お金うんぬんの発言は、食事中に交わされた会話の流れで出たもので、金持ちはなぜ文化的なものに色目を使うのかとの話題がその直前にあり、さらにその直前に出たのがその前日、亀の頭をなでる前に行ったマングローヴ林トゥアーでのわたしの感想だった。父・一政(1946-2012?)と母、そして一緒に回った現地在住のKさんはゴンドラ状の船に乗り、わたしと弟・崇範(1975-2012?)はゴンドラでは入って行けないマングローヴの密生の中へとカヌーで漕ぎ進んでいった。別のカヌーに乗ったガイド氏に先導されたり漕ぎ方を指導されたり植生の説明をされたりしながら、わたしと弟が奇景を堪能していると、少し開けた場所に出たのを見計らうかのようにガイド氏が、ここでは人間は小さな存在で大きな自然の一部に過ぎないというような説明を唐突に始めた。言われてみればわたしはその場でそういうことを感じないでもなかったけれど、11月だというのに汗をかき、慣れないオールの操作で上腕は軽く張りを持った状態で、あたりを360度見渡せる水面にいて、いま現在その場の風に吹かれている人間に対して、そんな効率的な説明をしてどうするのかと若干腹が立ったそのわけは、その説明の言葉はおそらく、自分が毎日のように仕事としてマングローヴの中を行き来する日々で得た体験を抽出して蒸留した決定版なのだろうけど、宣伝用のホームページに書く文句か宗教の勧誘ならばともかく、同じ時間同じ場所にいる人間となんらかの有用な関係を切り結ぶための言葉としては、たぶん間違っている、といった話から、安易に大きなものの一部になりたがる傾向(ネオ・ヒッピー、ネット右翼)をわたしが批判し、その流れを受けての母の、そんなことよりとりあえず金、の発言で、母とは血がつながっていない祖母にしてからが、だいたいちょうど20年くらい前、それまで放課後にしていたスーパーの青果部のアルバイトをやめて吹奏楽部に入った高校2年生のわたしに対して、どうして金がもらえる仕事をやめて金がもらえない部活動なぞを始めるのか、と質問してきたことがあって、そのときどう回答したかは覚えていないのに質問自体はまだ覚えているのだからいくらかのインパクトはあったことになる。

指が曲がるほど経済活動をしたと伝えられる祖母は妙に実際的で、一般的に老人が好みがちな信心にはまったく興味を持たず、そうしたものに熱心なひとたちに対して冷笑的ということもないにせよ、根本的には理解を示さなかった。信心が理解できない祖母が、ケチなだけでまったく実際的でない孫が入ったブラスバンドをどう認識していたかは定かでない。その祖母と結婚した男がわたしの祖父・マサジ(漢字忘れた、19XX-1982?)で、彼がたぶん昭和10年代の半ばごろ、北海道の旭川から遠路はるばる経済活動をしに奄美大島にやってきたその瞬間、そろそろと走る車の窓から外を凝視していた父がここだここだと言うのを合図に弟は車を浜辺に通じる短い脇道に乗り入れた。砂利道の行き止まりのすぐ先には桟橋があって、母と弟はその途中まで進んでいって側面を点検するように覗き込んでいたこの桟橋こそ、祖父がわざわざ北海道から来て作ったものだと思われ、祖父は自分が作ったもののしるしとして側面にMのマークを残していったそうなのだが、たぶんその何年かあと、対岸の加計呂麻島では帝国軍人・島尾敏雄と島の娘・大平ミホとが出会っていたはずで、出会いから約50年たって、わたしがこのふたりの結婚後の生活をモデルにした映画「死の棘」を借りてきたヴィデオで見ていると、父が横を通りかかり、気が滅入る映画だなあ、とポロリと言ったという事件があり、たしかにわたしも原作の持つやるせないヒューモアが映画版ではすっかりそぎ落とされているなと感じたものだったのだが、そこから30年近くさかのぼった1966年の夏、まだわたしの父になる気配のなかった当時の父は岡山まで用事で来たついでにこの桟橋までひょいと足を伸ばして、Mのマークを確認したことがあるそうで、いま調べてみるとその時期、島尾は奄美大島の図書館長としてたぶん名瀬に住んでいたのにもかかわらず、いざ近づいてみると桟橋は新しすぎて、60年以上前に作られたもののようにはとても見えず、海の色に誘われて浜辺に下りて靴を脱ぎ、膝下まで水にひたすと、さらに南のほうの海中に、桟橋の足の部分らしきものが、三点リーダのように頼りなく残っているのが見えた……。

やはりこちらの桟橋(A)は新しすぎる、あちらに見える残骸(B)こそが祖父の手になるものだろう、と車を走らせてみるとそこは前述のホテルの敷地内で、もともとは岸から海中へと桟橋がのびていたとおぼしき状態のところ、現存しているのは岸のすぐそばの部分のみであり、沖にはさきほどA地点から見た脚の部分が置き去りにされていて、その途中にあったらしい脚は引っこ抜かれて岸のそばに堆積していた。わたしは身をかがめて、ドラム缶にコンクリートを詰めて型抜きしたそれらの脚を観察してMのしるしを捜したが、父はそれぞれの脚の残骸の中央に入っている鉄の芯にすべりどめのギザギザがついているのを見逃さず、じいちゃんの頃はこういったものはなかったはずだ、とつぶやいた。しかしその場の趨勢として、Aはいかにも新しく、対してBは戦争中に作られたものが老朽化して壊された残骸、という感を強く漂わせていたため、なし崩し的に戦争に突入して行ったかつての国家の行動のメタファーのように、祖父が建造したのはBであろうとの結論になんとなく達し、Aの写真はほとんど撮らないままその場を去った。Aのたもとで海に入って出てきた時点でもっともよく濡れていた足を、母が持っていたタオルで拭きながら、そういえば実家という場所には常にふんだんにタオルがあったなと、とくに現時点で不足しているわけでもないにもかかわらず、思った。海辺に行くことはあらかじめ分かっていたのに、現地に着くまでは海に足をひたすことなど考えず、サンダルも持っていかなかったので、ふだんタオルを持ち歩かないわたしは、家族旅行でなかったら足が濡れるのを嫌って、海に入らなかったろう。海で話題になるのは、弟が幼少時、波を恐れて水辺に近づかなかった逸話で、ふだん離れて暮らしているのだからたまに会ったときくらいは親と子はそれぞれの現在と未来についていくらでも話すことがあるだろうに、親は子供が自分たちと一緒に暮らした時期の話しかしないのが嫌で嫌でたまらない、と、子供代表のわたしが飛行機に乗る前に両親に宣言しておくべきだったが、家族旅行につき費用は全部両親負担、わたしはただ連続して仕事を休む心理的負担だけを引き受ければいいのでまあ余計なことは言わずにおくつもりでいたら、出発前のある日、弟が、両親の費用もわれわれ息子たちで出そうと考えている、ととんでもないことを言い出して、わたしは肝をつぶした。とにかく自分が有名企業勤務で収入が多いからってそんな勝手な提案をされては困るのであり、それは兄の面目がつぶれるとかではまったくなくて単に預金の残高の問題だったから、出すだの出んだのと、旧制高校のドイツ語の時間のような、小競り合いに近い何度かの(わたしだけがおとなげなく激昂した)やり取りののち、最終的にはそれぞれが自分の旅行代金を負担するという、30を過ぎた大人の旅行としてはまず無難な線に落ち着いたものの、自分の分を出すことになってしばらく、わたしのはらわたは理不尽な思いで煮えくり返ってしまい、そのままとろ火で煮続けられて形がなくなった状態で助手席に戻り、蘇刈の集落にとってかえし、公民館の前の広場に車をとめた。海までは歩いてせいぜい1、2分で、浜に出るとシネマスコープのサイズに広がった入江のすぐ向こうに加計呂麻島が横たわっていた。そこで、もう長いこと死んでいて今回ここに来ることがかなわなかった祖母の骨の一部を海に流すと、やや曇った空と人物の配置が「旅芸人の記録」のワン・シーンのようになったのでわたしは写真を撮ってこの冊子の表紙に使った。父によれば、散骨処置は祖母の生前の希望だったそうだが、はたして唯物論者?のあの祖母がそんなことを本当に言ったのか、との疑いは残る。つまり、故郷にもう一度くらいは帰ってみたいという意味の発言を父が無意識のうちに曲解したのではないかということで、祖父と祖母は現在ではその経緯が不確かになった時間=空間的移動を経て、大阪や神奈川の鶴見、群馬の館林か太田あたりを転々とし、第2次大戦の終わる前後に栃木県の宇都宮にやってきてそこで小さな工場を開いたので奄美大島に戻るのは距離的に難しいという意味でだ。このへんの来歴はふたりの息子である父自身にももはやよく分かっておらず、親戚のなんとかさんが多少詳しく知っているそうだが、遠からずなんとかさんが死んだら誰にも知られなくなる、と思っていたら、浜辺で出会った男が、わたしの金銭感覚を見透かして、この景色は金では買えません、と言った。彼は1966年の夏、父と一緒に遊んだことがある小松さん本人だそうで、父と小松さんがなんやかんや昔の話をしていたのを、煮すぎて形のなくなったわたしは少し遠い場所から神の視点で観察しつつ、もしU字工事のファンの外国人がわたしが栃木県出身だと知って根掘り葉掘り栃木のことを訊ねてきたら、遠来の客への礼儀としてこの程度には話をあわせるだろうな、と、もとより小松さんがウソをついているという意味ではなく、考えた。小松さんによると、Aは戦時中に建造されたものを補修して使い続けていて、Bは後年ホテルが建ったときに作られたとのことだから、Aの写真をろくに撮らずにBを観察しに向ってしまった行動は端的に誤りだった。

骨を流したあと、わたしたちは奄美大島南部の最大の町である古仁屋から、半潜水船でサンゴ礁を見に出かけた。この船はその名の通り、ふだんは普通に航行し、サンゴ礁に近づくと半分だけ潜水する。船の下部のたくさんのガラス窓から、カラフルな海底が見える。父と母はちょっと恐ろしいほど興奮してほら魚! 魚! と叫んだ。老人と呼んでも差し支えないふたりがこんなにはしゃいでいるのはおもしろい。サンゴ礁を見終えて港に戻る途中、父は疲れて船底に横たわり、ほかの船客はそれを踏みつけないように気をつけて歩く必要があった。起き上がった父は旅行中100回くらい繰り返したセリフをまたつぶやいた。「おばあちゃんの生まれた土地を一度おまえたちに見せたかった」。ウザ松の「あんにょんキムチ」を見たとき、自分も家族にカメラを持ち込んで力関係になんらかのさざ波を立ててみたらどうだろうと一瞬だけ夢想したが、現実問題としては、そんな道具を使わずとも、通常実家に24時間以上連続で滞在することもなく、弟ともほとんどPPFNP(この冊子のどこかに告知あり)でしか顔を合わせないわたしが家族で旅行をすれば、精神と肉体の疲労というきわめて具体的な形で、波風は立つに決まっているので、最終日、3人を飛行機に放り込んで先に帰したわたしは、その晩、ひとりで船に乗って鹿児島へと向った。

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部屋の掃除をしていたら発掘された、2009年11月発行の「サウンド・オヴ・ミュージック」に掲載されていた文章。読み返してみたら意外とおもしろかったので載せてみます。他意はありません。当時は2012年で世界が滅亡することになっていたため没年表記が「2012?」となっていますが、両親、弟、わたし、全員いまだに存命です。
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by soundofmusic | 2013-10-13 00:46 | 日記 | Comments(0)


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