対象年齢

d0000025_1375530.jpg例によって午前中から出かけていると午後の早い時間にはぐったりしてしまうありさまで、だもんで高田馬場から20分かけて早稲田大学まで歩き、だだっ広い体育館みたいなところに入ったころにはすでに疲労困憊していた。

そんなこんなで初めて見るcero。先日の、森は……に続いて、またしても、うまく出会うことができなかったと思わざるを得ないと言わざるを得ないんだけど、それにしても、変拍子も軽々こなすけどプログレやフュージョン的なこれみよがしな感じはない演奏だとか、ラップを取り込んだ力の入り過ぎないヴォーカルだとか、若手文系バンドのいくつかのよくある型のひとつにかっちりハマっちゃってる気がするのはなんでなんだろう。音楽、いろいろあるのに。

おもちゃにはよく、対象年齢何歳から何歳、みたいに表示がしてあって、CDにはあんまりその手の表示はされてないけど、まあされててもそんなものを無視して楽しめるひともたくさんいるわけだけど、もう、なんかいろいろほかのものと区別がつかなくなっている時点で、というか正確には、よーく聴いて区別してみようって気が起きなくなっている時点で、この音楽はわたしには対象年齢外なんだろうなと思った。もっとも、片想いは一度ライヴを見たらすごい楽しかったし、ギロのアルバムはけっこう聴いてる。だからceroも、CD聴いたら気に入る可能性はおおいにある。ただしこのみっつのバンドが似てるのかどうかは、よくわからないけど。

あと、このひとたちの出自はぜんぜん知らないけど、早稲田の学祭でceroを見るっていうシチュエーションはすごくよかった。

対バンは細野晴臣バンド。冒頭の2曲「フラット・フット・フルージー」と「メンフィス、テネシー」、ロックンロールが生まれる瞬間というか、正確にはそれ以前の、ロックンロールの受胎の瞬間を観察してるみたいな気分にな。静かに興奮しているところに、「大人なんで、こんな感じなんですよ」と笑わせる。そしてゲストの青葉市子を呼び込むときに、間違ってかギャグなのか、「はしも……」と言いかけたのにはほとんど誰も反応してなかったけど、青葉市子の名前には場内がどよめく。こういうのは勉強になる。

青葉をゲストに迎えて演奏されたのは2曲。うち1曲はHISの「日本の人」で、この曲が入ったアルバム、出たわりと当時に聴いたときは色物だなあとしか思わず、いまから数年前になにかの拍子で聴きたくなって買ってみたら、これはもしかしたら100%オリジナルな日本のロックと呼んでいい初めての音楽じゃないのかと思った。そして、青葉と細野がわけあってうたうこの日の演奏を聴いたら、これは本質的な意味でのゴスペルなんだろうと感じた。

「ボディ・スナッチャーズ」での高田のリフの繰り返し、ロックンロールのミニマリズムの美学。「ハウス・オヴ・ブルー・ライツ」のブギウギのノリ。気持ちいい。そして、「フラット~」や「メンフィス~」といった「新曲」(これは、酒井俊が、自分が新しくレパートリーに取り入れた曲のことを「新曲」と呼んでいることを引用してそう言ってみる)が、(自分にとって)たまらなくヴィヴィッドに響くのにはやっぱり驚いてしまう。

夜は高円寺に移動して、北中音楽祭をちょろっとのぞく。商店街のそこかしこで同時多発的に音楽がおこなわれる試み。行ったときには終わりかけだったけど、三味線にあわせて猫がダンスしてるところとか、おもしろいものが見られた(それって、ブタがとんかつ食べるみたいな背徳的なことなんじゃない?)。この猫ですけど、通りかかった子供に、「猫の人間!」と話しかけられていた。

古本酒場コクテイルでは、何人かのうたや演奏を聴いた。斉藤友秋のギター弾き語り、わたしには未知の音楽だった。とても小さな、静かな音楽。すでにできているものとして存在する曲を弾いている感じがまったくしないんだけど、かといっていわゆる即興演奏にも聞こえない。その場で曲が生まれつつある状態や、その際の思考の過程を生で覗き込んでいるような感覚。

とにかくライヴを見るっていうだけで体力的にしんどくなってるのはどうしようもないんだけど、もう少し体調を整えて、いろんな音楽に触れてみたい。
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by soundofmusic | 2013-11-05 01:39 | 日記 | Comments(0)


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