セカンド・ハネムーン

d0000025_1739344.jpgまず前置きから話を始めますか。今週だか先週だかに為末大が、日本のヒップホップに対する違和感を公言して比喩的な意味での袋叩き(肉体的には痛くもかゆくもない)にあったという事件があって、良識派の音楽ファンの間では、いまさらそんなことを言うなんて為末の認識ダメどすぇー(←脚韻、および舞妓ブームへのめくばせ)みたいな感じになってましたが、わたしなんぞはいまだに、「日本語のロック問題」ですら決定的回答は出ていないとする立場ですから、日本語のヒップホップなんて基本的にはチャンチャラおかしくて、ごく一部、まあこれなら聴けるかな、と思えるものがある、くらいの気持ちでいるわけです。

もちろん、自分が最先端の動向に追いつけてない可能性は大いにあるわけで、だもんでちょうどいいタイミングで見つけた、とんかつQ&A「今だから抑えておきたいジャパニーズHIPHOPの歴史【入門編】」をざっと斜め読みして、知らないものについてはちらっちらっと聴いてみました。その結果、ヒップホップ・リスナーのあいだではここがターニング・ポイントとか、これはあきらかに一段階レヴェルが違う、とかあるんだろうけど、そこからはずれたひとたちの目から見たら、外見からしてこれらのほとんどは、コピーとしか感じられないんじゃないか、と思いました。

こういうことを言うと、おまえの感覚が古いとか、よく聴けばわかるとか、はては「そんなこと言ったら日本人が洋服着てるのだっておかしい」とか、いろいろ意見が出てくるわけですよ。感覚の新しい古いについては甘んじて批判を受けるとして、あとのふたつについて言えば、よく聴かないとわからないようなものはその程度のインパクトしかないものなわけだし、日本人が洋服着てるのは、別におかしくないわけです。

日本人の洋服、日本野球、日本映画、日本の洋食。それらのものが年月をかけて獲得したり失ってきたり変形したりさせられたりしてきた歴史を、日本のヒップホップはまだ経てないってだけのことでしょ、事実として。そもそも上記のとんかつQ&Aが、ノヴェルティ音楽としての日本語のラップとか、近田春夫とかをオミットしてるのはいったいどういうつもりなの? 日本のポピュラー音楽の流れの中にまともに位置づける気がないってことでしょ。だったらそれは、猿真似の精度がどれくらい上がったとかそういう話でしかない。

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ということで本題に入りますと、今年の春に新婚旅行めいたものをすでに済ませておるのですが、入籍後にもせっかくだからまた行っておくか、と長崎に行ってきました。街並自体は予想していたほどエキゾチックでもなくて、中華街はちっちゃくて池袋北口のほうが規模が大きいんじゃないかと思えましたし、がしかし、なにしろ中国や南蛮の文化の取り入れに関しては少なく見積もってもざっと数百年にわたる蓄積がある土地ですから、一見してそうは見えないところにも深く浸透している。

たとえば長崎駅前でたまたま見かけたくんちの様子がこれですが、この音楽の鳴り物とラッパのコンビネーション、日本のほかの土地ではなかなか見られないものなんじゃないか。たぶん中国人が聴いたら、これは日本の音楽だ、と言うでしょうけど。

そしていちばん興味深かったのは、キリスト教のありかた。市内の大浦天主堂や五島列島の福江島の堂崎天主堂で触れた、踏み絵の実物や、日本画というのか錦絵というのか、あきらかに西洋画とは異なった技法で描かれた聖画、そして、隠れキリシタンが隠し持っていたマリア観音。このような、日本と西洋がぶつかってきしみをたてた末に生まれ(てしまっ)た表現には、どうしても興奮せざるを得ない。

日本語のロックの源流を考えるにあたり、戦後の進駐軍が運んできた音楽、日本人にとっての西部開拓地帯のような意味合いをも持っていたであろう戦前の満洲、1930年代のモダン都市東京、といった具合に自然とさかのぼって、やっぱり明治維新から始めないとダメか、と考えていた時期があったのですが、それどころじゃない。ザビエルから始めないといけなかったんです。わたしたちは。

遠藤周作の「沈黙」を読んだり、Wikipediaで事前に軽く知識を仕入れたりはしていましたが、それにしても隠れキリシタンの意志の強靭さにはおののきました。250年もの間、まったく司祭なしで、仲間うちだけで教義を語り継ぎ、信仰を守っていくのがどんなことなのか、ちょっと想像がつかない。もちろん外に漏れれば即、命の危険を意味するわけで、そんな彼ら彼女たちに見えていた神様はどんな姿をしていたんだろうか。マリア観音とは、万が一見つかったときに観音様だと言い訳できるような造形の聖母像ですが、どう見ても観音様にしか見えなかったりする。同名のバンドがどういうつもりでそう名乗っているのか知りませんが、日本のロック・バンドとしてこれ以上的確な名前もそうそうあるまい、と思いました。また、余談ですが、こうした長い歳月の間に、隠れキリシタンのある者たちの信仰は否応なしに変形してしまい、明治になって再びカトリック教会と接したときには、お互いまったくあいいれない姿になってしまったりもしたのだとか。

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それにしても、観光客の目で見る限り、長崎の街は美しい。路面電車があいまを置かずに次々とやってくるのがいいし、少し歩けばすぐ坂になって見上げると山の中腹までびっしりと家がへばりついている。稲佐山から見下ろす夜景はもうとにかくなんというか……写真も撮ったけど、見直すとまったくそのきらびやかな景色が再現できてなくて、悲しくなる。

福江島への行き帰りのフェリーのデッキでの、景色というか、座っていると目の前に次々と島が現れては消えていき、潮まじりの風が全身に浴びせかけられ、足元がゆっくりと揺さぶられ、重油くさい煙が鼻を突き……これも全感覚的なライヴ体験でした。島内では天気にはあまり恵まれなかったけれども、レンタカーを借りてドライヴ。実家周辺以外の場所で運転するのがたぶん初めてなので気疲れしたけど、楽しかった。しかしまったく気付いてなかったことがあって、運転しながらだと景色が見られないんだよ!

長崎といえば原爆も欠かせない。わたしの実家に伝わる故事として、わたしの両親が新婚旅行で広島を訪れた際、原爆資料館の展示を見た母が気持ちが悪くなった、という話があるんですが、それのカヴァーというかトリビュート的に、わたしたちも原爆資料館を見学しました。広島のはわたしも高校の修学旅行で見ていて、たしかにかなりショッキングだった記憶がありますが(記憶がおぼろげだけど)、長崎のはそれと比べるとマイルドでした。入ってすぐのところにはひしゃげた鉄塔だとか天主堂の壁(複製)だとかがあり、進んでいくと、熱戦被害、放射線被害、原爆の構造、人体への影響、救護活動、原爆投下にいたる国際情勢、被爆者の証言、戦後の核状況、などなど、多面的立体的な展示がなされている。これは見事でした。ごくごく基本的なこととして、日本人のことを親身になって考えるのは究極的には日本人がやらなくてはならない。これはナショナリズムとかそういうことは抜きにしての話です。国際的な核廃絶運動は当然おこなわれるべきですけど、それはそれ、これはこれですから、だからこの資料館は日本がなんとしても死守し、育てていかなくてはならないもののひとつでしょう。

写真は、長崎市内の中古盤店、サニーボーイ。市内にはティーボーンという店もあるのですが、こちらは市街地から20キロくらい離れていて、グーグルのストリート・ヴューで見ると、ほんとにこんなところにあるのか、という田舎にある。ですので訪れることができませんでした。
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by soundofmusic | 2014-09-27 17:40 | 日記 | Comments(0)


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