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アート・テイタムのピアノを聴きながら、天然な女が実在するかについて考える。

なんの気なしに買った、アート・テイタム「1940-1944」を聴きながら、目黒通りを凍えて歩く。原盤はSPだろう、ハイ・ファイなどという概念からは100万光年離れたところにある音像。

テイタムのピアノは音質とは関係のない場所で鳴っていて(なにしろ、ピアノだから)、でっかい玉っころがものすごいスピードで転がっていくような、軽快でなおかつ力強いタッチ。「サヴォイでストンプ」だとか「ハニーサックル・ローズ」だとか、本当にあっと息を呑むほど。

バカな話、「世界一のピアニストだ」「世界一のピアニストだ」「世界一のピアニストだ」とぶつぶつ心の中で繰り返しつぶやいていた。世界一なんてものは、原理的にはないのだけど、それでもたとえば、月光茶房のギネスだとか、ある種の恋人だとかについて、こりゃ世界一だわ、と感じることはあるので、それらがひらたく言えば錯覚なのだとしても、そのように錯覚させてくれる何物かに対しては、やっぱり何度でも感謝しなくてはいけない。

アート・テイタムとは、そういう音楽。

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同時に考えていたのが、ほとんどなじみのない、プリ・モダンのジャズならではの気持ち良さの正体についてで、なんとなく、モダン・ジャズ特有の自意識がなくてただ音楽と対峙しているだけのようなところが気持ちいいのかなと考えたりしていた。

思えばこれは失礼な話で、モダンだろうがプリ・モダンだろうがポスト・モダンだろうが、ミュージシャンが原則において、できるかぎり良い演奏をしようとするのは(おそらく)当然のことで、またある種のミュージシャンは自分のいる場所の全体像に飽き足らずに、その場所の地図自体を書きかえるような演奏を試みもするだろうし、その2種類の動きが同じひとりの人間の内部で起こったり起こらなかったりする、などと書くと、単純な話をわざわざ複雑に書こうとしていると感じるかもしれないが、それは非常に正しい。

要するに、昔も今も、すぐれた演奏家とそうでもない演奏家がいて、進歩的な演奏家とそうでもない演奏家がいて、このふたつの概念は重なったり重ならなかったりするのだろうということだ。簡単なこと。ぼくたちが世界を見るときに感じることと同じ。

とはいえ、プリ・モダンならではの、ロウ・ファイな、全部の楽器が分離せずに団子状になり、それでもすぐれたプレイヤーは無理やりにでも周りを押しのけてスピーカーのこちら側に飛び出してくる、そんな様子には興奮もさせられるのだけど、「おお、やっとるな」と目を細めたくもなる。

目を細めながら、ふと、「これって、都会の人間が休みの日に東北の田舎かどっかに行って、土地の娘たちが裸で川で泳いでいるのを見て、『このおぼこい娘たちを見よ! ここには失われた日本の美がまだ息づいているのだ!』などと嘆息するみたいなもんじゃなかろか」と反省(反省?)したりもする。

関連して、最近、「天然とか不思議ちゃんなんて、ない。それはバカか、作ってるか、どちらかだ」と主張しているひとと毎日のように言い争ったりしているのだけど、その手の、天真爛漫な、気の向くままに行動し、ときどきひどく魅力的な、しかしよく考えれば大体の時間は単に自分勝手なだけの、自意識にとらわれない(実は自意識の塊みたいな)、女の子ってのは男の(といっていいすぎならば、ぼくの)夢であって、実在しないのかもしれないけど、すると思いたいじゃないですか、ねぇ?

アート・テイタムとは、そういう(天然な)音楽。

といったら、泉下のアート・テイタムがいやーな顔をしそうだね。でも逆に言えば、芸術家なんて、天然の美じゃなかったらつまんないだろうし、さて、それでは、女の子は、どうなんだろう。

(森山)
by soundofmusic | 2005-12-06 16:43 | 日記


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