なんでも、読書の秋なんだとか(死語だろうか?)。
小説を読むのが好き、という人種というかそういう時期というかそんなものがあって、かくいう自分もブックオフなどに行った際に棚から引き抜いたりしてぱらぱらめくってみたりすることがあるものの、なかなか読み進めてやろうという気分になれない。いまさらいうまでもなく、たいていの小説は小説を読む読者のためのものであって、あらかじめ小説を読む気になっていない人間を引き込めるようなものはたぶん多くない。自分の知らないなにかがアマゾンで熱烈にレヴューされているのを読んで思わず引いてしまったりするのと似ているかもしれない。
だからといって、「インターネット発の」「軽妙でポップな文体で」「現代の風俗を軽やかに切り取った」りしているような小説にもたいして期待する気にはなれず、そのくせ、本について書かれた本はいつでも楽しく読めるので、そういうところに紹介されている小説なんかについては、「ああおもしろそうだなあ」と思ったりする。
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そんな次第なので最後に読んだ小説がなんだったか思い出せないまま、ひとから借りた有吉佐和子「複合汚染」を読んだところ、めっぽうおもしろいのでまいってしまった。有吉佐和子自身による農薬その他による問題のルポルタージュ的な体裁のため、ストーリーもなく、美男美女も出てこない、型破りな作品、などと称されたりするようだけど、実際、型破りかどうかとかストーリーのあるなしだとかそんなことは、それがおもしろい本でありさえすれば、別に気にならないものではないだろうか?
このあたりはいわゆる「文学的な」話題になるし、そういった話をする用意はないでもないけれど、分かるひとには黙って目配せするだけでよくてことさらに説明する必要はないことだし、分からないひとには何べん話したってムダだから、ここでは省略する。
ただこれだけは言っておくと、小説の機能を充分に生かしきった作品とはこういうもののことをいうのである。小説の各種の魅力のうち、既存の「小説らしさ」からはみ出していることは決して軽視されるべきでない。と書くと、それはいわゆる実験、前衛のことかという反応があるだろう。しかし実験、前衛と読み手に思わせてしまうと、その時点で少数を囲い込むことに成功するだろうが、同時に大多数の読者を失うことになる。少なくとも、有吉佐和子の、この作品においては、それは失敗を意味するだろう。
バルザックに読ませてみたかった。
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次に読んだのは野坂昭如の「エロ事師たち」で、さすがは代表作だけあって、これも堪能した。全篇にみなぎる異様なテンションに震えが来る。子供のうちに読んでおくべし。
で、今、必要があって太宰治の「人間失格」を読んでいる。もう太宰を読み返すことはあるまいと思ったのだけど、この巧みさには舌を巻く。上手い。と同時に、美味い。こちらは、妙に感化されないように、大人になってから読むといいかもしれない。
ふだんはころっと忘れているのだけど、我が家には、聴いてないCDだけでなく、読んでない本も相当量あるのだった。読みきれるもんでなし、かといってCDと違って本は売れないから、困る。重量か体積に応じて友人・知人のみなさんに安価で引き取ってもらうのがいちばんいい気がする。みなさん、今度はかりと風呂敷を持って遊びに来ていだたけまいか。
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先日のセットリストはいましばらくお待ちください。