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割れた卵の中から

ロックなんぞを聴き始めたころ、よく分からなかったことのひとつに、いったいこのプロデューサーというひとは何をしているのだろうか、ということがあって、何年かたつうちに、別にステューディオを見学しに行ったりしなくてもなんとなく答えのようなものが分かっ(た気になっ)てきたわけだけど、思えば映画監督に対して持つイメージも、似たようなものかもしれない。自分で演技をするわけでもなく、カメラを回したり脚本を書いたりは、するひともいるが必須ではなく、それでいて、明らかに映画のよしあしを左右する。その点、野球の監督とも似ているが、英語だと映画監督はDirectorであり、野球の監督はManagerと呼ぶのが普通のはず。

ところで、映画のカメラマンの仕事も、分かるようで分からぬようで、などということを思ったのは、今日、新文芸坐に行ったら、ソクーロフの「太陽」の予告篇がかかっていたから。ごらんになった方ならお分かりのとおり、あの映画は、不敬などというものではまったくなく、どうして公開が危ぶまれたりしていたのかまったく、どう考えても、理解できないのだけどそれはそれとして、やけに色を抑えた撮影なもので、見ていると目がしぱしぱして、最後のクレジットのとき、これはいったいなんというカメラマンなのかと思って確認したら、何のことはない、監督自身が撮影も担当していたのだった。

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新文芸坐で見たのは、吉村公三郎の「婚期」。水木洋子の脚本はまったくもって容赦なく、それでいてよく笑いを誘いもするのだけど、でもやっぱりちょっと容赦なさすぎる気がする。

撮影は宮川一夫で、わたしはこのひとにがっかりさせられたことが一度もないはず。そういう思いを抱かせてくれる映画人は、実は少ない。杉村春子、山田五十鈴、くらいじゃないだろうか。

「婚期」では、たとえばテーブルの上に置かれた卵が転がって、落下して、床にぶつかって、割れる、という流れを、まるで奇跡かなにかのように映し出してくれる。たとえば、ミルク・クラウンの映像をみなさんご覧になったことがあるだろうが、あれを初めて見たときの驚きを思い出してほしい。あの驚きを、高速度撮影もズームも使わず、ごくありきたりなできごとを映し出して、実現するのが、宮川一夫。

そういうものを見たときの客席の反応はどんなもんか、といえば、卵が転がりだしたとたんに、思わずいっせいに、「あーあー」という声が漏れるのである。

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卵からしてそれであるから、若尾文子なんぞを撮る手つきというのか目つきというのか、それはもう、ただごとではない。おそらく、その当時の実物の若尾文子に会ったって、このフィルムに定着した姿ほどには美しくはあるまい、とため息が出る。

宮川一夫の天才ぶりが味わえ、それでいてごく気楽に楽しめる映画なのはいいのだけど、なんだか、映画を見るなんてむなしいという気分にもなってしまう。
by soundofmusic | 2007-02-04 20:49 | 日記


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