説明書き

d0000025_19143824.jpg昨日、紀伊國屋方面に用事がありました。本屋にいるのはまんざら嫌いでもないので、用事の始まる前の時間、紀伊國屋の文芸書の新刊のコーナーで目立つようにディスプレイされている何冊かを手にとって、それぞれ1分くらい、ざっと眺めてみました。村上春樹の「1Q84」、青木淳悟「このあいだ東京でね」、磯崎憲一郎「世紀の発見」、あと1冊くらい見たかもしれないけど覚えてない。

いま調べてみたら、青木の本が出たのは2月。ということは、そんなに売れてるんだろうかとびっくりするけれど、その場では奥付は見なかったので気付くはずもない。そのかわり、その場で驚いたのは、この3冊がまったく違った原理と発想でもって書かれているんだろうなと、それこそぱっと見ですぐわかったこと。

たぶん村上春樹のは、心地よい語り口に乗せて上下2冊を一気に読ませてしまうだろうと予感できる。できるのだけど……とその先は今日の本題ではないので言わずにおく。試聴機に入っているAとBのCDがそれなりにまったく違うものであり、自分にとってお金を出すに値するものかどうかは、それぞれ1、2分聴いていれば分かるのだから、本屋で同じようなことが起こったとしても不思議ではない。

そこで思い出したのは、たしか桐野夏生が、たぶん1か月くらい前に、新聞だったかなにかで、グーグルによる書籍のデータ化について書いていたこと。詳細は忘れたけれど、1冊の本の全部の文章のうちデータ化されるのは2割程度、だとかの指摘に続いて(この指摘が事実として正しいのかは分からないし、わたしが正しく覚えている自信もありません)、2割を読んだだけでこれはこういう小説だ、と分かった気になられては困る、と憤慨していた。

そのときのわたしの感想を、昨日の紀伊國屋で感じたことと重ね合わせて、身も蓋もない言い方でいうならば、「いい気なもんだ」となり、もう少し穏健な表現を駆使すれば、「ひとにはそれぞれ事情がある」となる。野暮を承知でわかりやすく説明するなら、小説を読むのが好きな特別なひと以外の一般の大人から、単行本1冊分の金と時間を取り立てるのがどういうことなのか分かってるのか、ということであり、2割読んだくらいじゃそれが価値のあるものかどうか分からないからあとの8割も読んでくださいね、とは図々しすぎやしないか、ということです。小説家が小説が好きなあまり、小説のことしか考えられなくなっている状態は、それはそれで正しいのだけど。

少なくともいまのわたしは、最後のほうに面白い部分があるから、といわれても、そこまでに至る文章に魅力がなかったら、読んでいたくない。わたしが読みたいのは、本でも小説でもベストセラーでもミステリーでも情報でもなくて、文章だからだ。

一昨日だったかな、電車の中で、わたしの前に立っている女のひとがなにか本を読んでいた。そのひとの頭の匂いをかぎながら肩越しに見ると、その本がリリー・フランキーの「東京タワー」であることはすぐに分かった。そこに書かれているのはほぼすべて「説明」であるようにわたしには見えた。わたしはわたしの観察が間違っていることを望んだ。「説明」の本が何百万部も売れるはずはないからだ。

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写真は水道橋で撮ったもの。右側の紙が剥がれている部分、ほぼ確実に独島と書かれているのだけど、なぜか一瞬「松島」に見えて、不思議なシャレを言うもんだな、と軽く感心しかかってしまった。損した。
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by soundofmusic | 2009-07-05 19:14 | 日記 | Comments(0)


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