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「高峰秀子って、ブログやってないんかな」というのが、山本嘉次郎「綴方教室」(1938)を再見してまず出てきた感想。この映画の原作は当時評判を呼んだ(らしい)豊田正子の作文集で、高峰がその作文少女正子を演じています。映画が作られた当時はまだ世界中の誰も(本人ですらも)、後年の彼女が稀代の文章家になることを知らなかったわけで、現在のわたしたちは、天才子役のすばらしい新作をリアルタイムで見る感動を味わえないかわりに、この役をデコちゃんが演じるなんて、まるでしつらえたみたいだ、と素朴な驚きを漏らしたくなるしくみ。

さらに、母親の清川虹子に、「またロクでもないこと書くんじゃないよ!」と叱られ、夜、家族が寝静まったあとにのっそりと起き出して鉛筆を握る姿には、木下惠介「女の園」(1954)で、寮の消灯後も隠れてこそこそ勉強するデコちゃんの姿が重なりもします。

しかし、豊田正子の原作の文章+デコちゃんの演技、だけではまともな映画にはたぶんならないわけで、子供なりの観察眼の鋭さをどう映画表現にコンヴァートするか、について、よく考えられているところに興奮しました。

たとえば、清川虹子が高峰秀子を井戸端で叱っていて、カメラが移動すると、井戸の脇には、平然とした様子で洗濯物を棒でぱしぱしと叩いているおばさんがいる。そのあと、高峰が家の中に入ろうとして、びいびい泣きながら汚れた足を雑巾でぬぐっている。あるいはまた、高峰が近所のおばさんに叱られて(なんだか叱られてる映画みたいですが)弁明する場面での、干されている洗濯物や高峰のワンピースにそよぐ風であるとか。こうした細部のいちいちが、以前見たときよりもぐいぐいっと迫ってきて、見直したらいっそう好きになりました。

三村明の撮影のヌケのよさは特筆ものです。劇中、やはり三村が撮影した「人情紙風船」(1937)のポスターが塀に貼られていますが、「人情紙風船」も、もともとはこんなふうにすっきりした画面だったんでしょうか。だとしたら、それを見てみたい。

もしかしたらこの映画は世界で最初期のネオレアリズモなのかもしれないと思いました。そしていまでも、どこかできっと、正子みたいな貧乏な家の娘が、日々のあれこれを忘れないうちにささっと携帯電話に打ち込んで、ブログにアップしてたりするんでしょう。

とか言ってたら、ちょうどいま読み始めた松田道雄「私の読んだ本」(岩波新書)には、彼が大正期に受けた作文教室の衝撃が書かれていました。立川文庫なんかの型にはまった描写や、いわゆる美文ではない文の味わいを彼は学校の作文の時間に知ったのだそうで、「野良文」の歴史、調べてみるとおもしろいかも。それとも、高橋源一郎の指摘する自然主義リアリズム至上主義と同じってことになっちゃうのかな。

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PPFNP、来週の土曜日に迫ってきました。詳細はこちらをご覧いただきたいのですが、とにかくだまされたと思って一度、ジョー長岡さんのうたをみなさんに聴いてほしい。ふたりあわせて買ったCDが5万枚♪とクレージーキャッツにもうたわれた(ウソ)森山の兄弟が全面的に前面に身を乗り出して推薦するシンガー・ソングライターです。キャッチフレーズをつけるとしたらなんだろね、「ギターを持ったランディ・ニューマン」ってのはどうでしょう。ひとなつっこくてどきっとする感じなので。
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by soundofmusic | 2009-07-17 20:27 | 日記 | Comments(0)


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