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夏の女優


d0000025_1056495.jpg地味に興奮させられたいくつかのできごと。

キャノンボール・アダレイの発掘ライヴ盤『マネー・イン・ザ・ポケット』。66年3月、イリノイ州シカゴのザ・クラブにおける録音で、つまりは同年10月の『マーシー、マーシー、マーシー』の半年前のもの。

……なのだが、解説を読むとおもしろい話が書いてある。ザ・クラブでのライヴ盤と謳ってある『マーシー~』は、実はステューディオ・ライヴなのだそうだ。というわけで、実際の“ライヴ”はどうかというと、これがすごい。キャノンボールには自然発火、とかいうタイトルのアルバムがあった気がするけど、まさにそんな感じ。

ナット・アダレイ、ジョー・ザヴィヌルを擁したフロント陣の盛り上がりはいうまでもない。やはり耳が行ってしまうのはロイ・マカーディのドラムスで、つまりはジャズ・ロックというのはドラムスのことなのだとよく分かる。いつだったかに書いたエリントンしかり。

60年代半ば以降、ロックの台頭によってジャズ・ドラマーたちのプレイ(と録音)がどのように変わっていったのかを研究してみるのはおもしろそうだ。誰かお願いします。

なお、わたしの買った欧州盤はちゃんとしたCCCDですが、上記リンクの米盤はもしかすると従来のCDかもしれません。間違えるといけないので、念のため。

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2003年の夏に出た、映画芸術の蔵原惟繕特集号をようやく買った。ぱらぱらめくっているだけで充分どきどきさせられるのだけど、ともかく巻頭の辞にはまったくそのとおりだといいたくなる。

この半年、笠原和夫と深作欣二の死と彼らが遺した仕事について多くの人が語ってきた。/しかし、蔵原惟繕の死と彼の映画について語る人はいなかった。
(中略)
しかし、なぜ、同じ年にデビューした増村保造は彼らに「発見」されて、蔵原惟繕は「発見」されなかったのか。ユーロスペースや三百人劇場でやらなかったからか。/じゃ、なぜ、やらなかったのか。


亡くなって3年以上たつけれども、蔵原作品をまとめて上映したのは偉大なる中野武蔵野ホールだけで、それも、日活の監督6人くらいをまとめて採り上げた特集の一環としてだった。

はやく再発見してほしいとか、同じことを何度も言わせないでほしいのだ。ただ当たり前のように見られるようになってほしい、ただそれだけなのだ。

ところで、編集後記に、浅丘ルリ子へのインタヴューを申し込んで断られたことが書いてあった。あんたが話さなくてどうすると軽くいきどおりもしたものの、反面、さすが女優とちょっと嬉しくもなった。テンコ健在なり。

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当然ですが、「1950~1960 映画/音楽の旅」では、第2回の黛敏郎のときに、蔵原にも言及する予定です。とはいえ、ヴィデオやDVDで出ているものでは、蔵原の本当の旨みは味わえないのですよね。わざわざそのためにCSに入ったり、名画座に行ったりするのは、始めてしまえば実はなんでもないことなのだけど、一般的には、敷居の低い楽しみとは言いがたい気もするのでとても強制はできない……このジレンマよ。
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by soundofmusic | 2006-08-30 10:57 | 日記 | Comments(0)

(必要に応じて)黒く塗れ!

アマゾンで買い物をしたらギフト券がもらえたのでそれでまた買い物をしたうちの1枚のジェイムズ・ブラウン『ヘル』(74年)を聴く。

黒人音楽について詳しくないのでJBも適当に何枚か持っているだけだけど、こりゃスゲェや。ミニマルでテンションの高いビート、言わずもがなのソウルフルなシャウト。サンプルネタとして重宝、といったレヴェルを越えている。1曲まるごと、そのままトラックにして使えちゃうじゃないか。とくにタイトル曲のサックスのフレーズには、妙なユーモアすらあって(地獄なのに)、なんとなくデ・ラ・ソウルを連想した。

連想したものがもうひとつ。このアルバムは、曲と曲の間にゴォーンというドラの音が入って、それがピチカート・ファイヴがやっていた同じ試みを思い出させる。たぶんそれはJBのこのアルバムからの引用なのだろう。

それでしみじみ思ったのは、いまさらながらオリジナルとパロディについてで、いつごろからか、とくにオリジナルを知っている必要はない、ということになってしまったなあ、ということ。それはたとえばピチカートのように、マニアックすぎる元ネタをひっぱってくるひとたちが増えてきたからということもあるのだけど、出回っている情報量の増大にしたがって、元ネタを知っているかどうかよりも、それが元ネタを意識して作られたものであるかどうかを見極める嗅覚のほうが重視されるようになったからだ。

極端な話、カップヌードルのCMにJBが出たのが衝撃といっても、あれで初めて「セックス・マシーン」を聴いたひとのほうが、数としてははるかに多いわけだ。小川美潮も、「ビートルズだってジョン・レノンだって、聴いたことのないひとのが多いわけだから」と言っていたが、それと同じことだ。JBの音楽がいくらすごいといってもそれは音楽としてすごいのであって、なにか万有引力と同じ程度に世間のどこに行っても通用する真実であるとか、交通信号の3色の意味を誰でも知っている程度に広く知られているとか、そんなふうに思ってはいけない。

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ソウル音楽を“自分のための音楽”として聴いたり、そういった立場で魅力を語ったりすることは、わたしにはまだできない。ほかの音楽についてはどうなのかというと話が長くなるから、省略するけれども。

前から不思議なのが、ことさらに“和風”のテイストを打ち出すヒップホップ・アクトやミクスチャー・バンドだ。誰といわれると困る。なんか最近、そういうのが多いなあという程度の認識だから。

どうもそれらに違和感を覚えてしまうのは、本来なら異物として存在しているはずの異文化に、あまりにカジュアルに接近しすぎているからだ。シャネルズは、ドゥワップに憧れるあまり、顔を黒く塗った。いまから見ると色物だが、どうやったら黒人に接近できるかを考えた末のことだったろう。強引な同一化。

また、混血という手もある。そもそも、20世紀後半以降、力のある大衆文化は、多かれ少なかれ混血の要素を持っているから。たとえばスチャダラパーは、ある種のヒップホップのユーモアと知性をどう日本語に移し変えるか、ということに心を砕いてきたのではなかったか。

どうもわたしが違和感を覚える連中は、枠組だけを持ってきて自分の思想をそこに適用させているように見える。表面だけの理解、ファッションだけのBボーイよりよっぽどタチが悪かないか。

そのうち、「親や仲間たちをリスペクトするヒップホップの精神はそもそも武士DOがルーツ!」とか言い出しそうで怖いのよ。

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寄り道が長くなった。元ネタとパロディだなんてすでに解決済みの話題をまた考えていたのは、ラピュタ阿佐ヶ谷のGS特集で「進め!ジャガーズ 敵前上陸」(68年)がかかると聞いたから。中原弓彦(現・小林信彦)が脚本に参加し、前田陽一が監督したこの作品、構造としてはリチャード・レスターが撮ったビートルズ映画を参考にしている様子だが、日本で初めてゴダール「気狂いピエロ」のパロディをやっている。

フィルムセンターで見たときは、その場面が来ても、あれ、これってなんの引用だったっけ、と一瞬気づくのが遅れる始末。まあそんなにおもしろくないのだけど、なにかの間違いで前田陽一をまとめて見てみたいってひとは、プログラムに加えておくといいかも。

で、なにがいいたいのかっていうと、制作当時としたら、人気GSグループ(ってなんかいいかたヘンだね。“GSバンド”?)の全国ロード・ショウ作品にカルト監督、ゴダールのパロディが! っていう扱いだったろうに、今では前田陽一のほうがカルトになってしまっている。

ただ、前田陽一の映画は難解でもなんでもない。見る機会が単純にそれほど多くない、程度の意味だ。

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さて、すでに予告済みの池袋コミュニティ・カレッジの講座「1950~1960 映画/音楽の旅」、詳細が発表になっております。単発で受講することも可能なようなので、興味のある回だけ聴きに来ていただくのもよろしいかと。みなさまお誘いあわせのうえ、お越しくださいませね。

ただ、同時期に、大谷能生もおもしろそうな講座を始めるんだよねぇー。これ、気になる。
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by soundofmusic | 2006-08-22 03:18 | 日記 | Comments(0)

インディ・ポップなんてものに興味はそれほどないんだけど

一時期ほどではないものの依然としてうちのパソコンの大きな役割のひとつはレコードを買うための機械としてのそれで、今月はラトヴィアとベルギーから初めてのお取り寄せをしてみた。

昨日は昨日で、シカゴのジェニファーから郵便。彼女が入っているインディ系のコミュニティ・サイト「ボウリー」の面々がファンジン「スロウ・グラフィティ」を出したというので、取り寄せてみたのだ。

A5サイズで約24ページだから、ふだんの「サウンド・オヴ・ミュージック」とだいたい一緒。紙質とデザインと印刷は、あちらのほうがやや(だいぶ?)上。

サイト名と誌名から、分かるひとには分かるとおり(わたしは分からなかったが)、もともとはベルセバのファンサイトだったらしい。現在はインディ・ポップ総合、といった雰囲気になっていて、このファンジンにはスウェーデンのラブラドール・レコーズへのラヴ・レター的な原稿だとか、Fortuna Pop!のオウナーのインタヴューだとかが載っている。

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まあそういったものも読むぶんにはおもしろいけれど、あまり興味はない。ただ、誰かが好きでやってることをあまりバカにしちゃいかんとは思いましたね。ここには、よいファンジンならではの熱がきちんとある。

読みたかったのは、ジェニファーがやっていた、シカゴのPPFNPについて書いていると聞いたから。「We don't dance - The story of a failed American indie pop club」と紹介されたこの記事は、こんな風に始まる。

シカゴに引っ越してきたのはライヴが見たいがためだといっても、そんなに間違いってことにはならないと思う。生まれたこのかた23年間、おっそろしくちっちゃくて、どうしようもなく退屈なミルウォーキーの町で暮らした末にわたしが考えたのは、シカゴだったら、たとえ小さくても、インディ・ポップのライヴに通ったりクラブでそういう音楽で盛り上がったりする趣味にうるさい仲間たちのグループがあるに違いないということだった。

こうしてシカゴに引っ越してきた彼女は、インディ・ポップがかかるクラブがまったくないことに驚き、自分で始めることにしたのだが、ただのひとりも知り合いはいない、DJもやったことがない。さぁ、どうする。

つまりこれは、わずか1年半で幕を閉じたあるクラブ・イヴェントの栄光と衰退であると同時に、たぶん世界中のあらゆる場所で昔から繰り広げられている物語でもある。もちろん、あなたにもまんざら関係がなくはない、ということだ。

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スロウ・グラフィティ」は送料込みでわずか$4。リンク先からPayPal払いなどで購入可能。何部刷ったのか知らないが、最初の250部には27曲入りのCDつき。Fortuna Pop!など5つくらいのレーベルのサンプラーです。

編集後記に書いてある言葉が輝かしい。
“If you have enjoyed this fanzine, go and write your own.”
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by soundofmusic | 2006-08-21 01:16 | 日記 | Comments(0)

世界はそれをジャズ・ロックと呼ぶんだぜ

ラーメン屋でラーメンを食べていたら、斜め向かいの席に座っていた男が『ビッチズ・ブリュー』のTシャツを着ていて、それを見て不意に思ったのが、あれをロックと称した当時の(ジャズ・)ジャーナリズムはいったいどういうつもりだったのかということなのだが、おそらくは彼らにとって得体のしれないサウンドをロックと呼んだのかもしれず、だとしたらそれは本来、メイヨなことに違いない。

ジャズとロックが合体したらカッコイイんじゃね? 的な発想に基づいてロックがジャズの要素を取り入れるとシカゴやB,S&Tになり、逆に、ジャズメンがロック的な演奏をするとフュージョンになった、とするのはあまりにも単純な分類かもしれない。忘れてはいけないのはそれらよりも前、60年代前半あたりにも“ジャズ・ロック”と呼ばれる音楽があったということで、たとえば「サイドワインダー」だとかが該当する。

そのへんのものは、いま聴くと、どこがロックなんじゃい、といいたくなるのだけど、ジャズ・ドラマーの叩くもっさりとしたエイト・ビート(なんだろうか、あれは?)は、なかなか味があっていいもんだ。なんてことを思い出したのは、デューク・エリントンの『極東組曲』(66年)を買ったら、なんともイイ感じのジャズ・ロック・ナンバー「ブルー・ペッパー」が入っていたから。

おそらくPPFNP以外のクラブ・イヴェントではまずかかることがないであろう、いなたい曲で、御大の、「なんだか最近ロックとかいうのが流行っているらしいな。こんな感じか?」とでも言わんばかりの雰囲気が最高。実際、最近何枚か聴いた60年代半ばのエリントンは、ビートルズやらボブ・ディランやらも採り上げていて、しかもそれが、笑っちゃうくらいちゃんとエリントンになっているのだ。

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さらに今週買った、ジャズ+ロックなアルバムをもう1枚紹介。ブルース・ウェストコット・トリオ『アンド・アロング・ケイム・ブルース』 (71年)。これはいまの基準での名盤でしょう。

ユニヴァーサルの「フィンガー・スナッピン・ミュージック in ジャンピン&ジャイヴィン・スタイル!」シリーズで再発された1枚。まったく情報がないミュージシャンらしく、ハイファイ周辺の人間と思われるライターがかなり苦戦した様子でライナーを書いている。

ピアノ/ヴォーカル、ドラムス、ベースからなるトリオのライヴ盤で、「ロッキー・ラクーン」も「マイ・ウェイ」も「サニー」もまとめてスウィングさせてしまう。これだけのプレイをするドラマーが無名とはとても信じられないので、調べれば何かほかの仕事の経歴が見つかるのかもしれないが、調べていない。

このリズムがジャズのものなのかロックのものなのかはどうもよく分からず、その分からなさ加減がいま聴くのにちょうどいい。あるいはエルトン・ジョンとロイ・マカーディが共演したら、こんな音楽ができたかも、と夢想するのも楽しい。

などとつらつら書いてきたけれど、このアルバムは、エディ・ジェファーソンの「サイケデリック・サリー」なんかを称するために小西康陽が発明した、“ロック・ジャズ”という言葉がふさわしいんだろうね。結局。
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by soundofmusic | 2006-08-18 12:58 | 日記 | Comments(0)

Pure Pop For Now People Volume 56


2006年9月24日(日)18時~22時

渋谷エッジエンド(Tel:03-5458-6385)
地図。

800円(1ドリンク&おみやげ付き)

DJ:
太田健一
高嶋里美(Super Seeder
森山弟(弟)
森山兄(サウンド・オヴ・ミュージック)

LIVE:
渚とみどりとジョー(轟渚、江藤みどり、ジョー長岡)

珍しく早い! 地味で薄いがシブくはないイヴェントPPFNP、次回、9月のご案内です。
DJは当イヴェント初登場、「サウンド・オヴ・ミュージック」での戦前ジャズの原稿も大好評の太田健一さんと、たぶん今年1月以来の登場となる高嶋里美さん。
ライヴはアコースティック・ユニット、渚とみどりとジョーが登場。今年6月のライヴがCD化される噂もある轟渚さん(ヴォーカル)、各種セッションにひっぱりだこの江藤みどりさん(フルート)、ちちぼうろとして活動中のジョー長岡さん(ガットギター)の3人組です。お楽しみに。
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by soundofmusic | 2006-08-14 00:19 | PPFNPイヴェント情報 | Comments(0)

通りかかってください

また告知です。

夏休み、とくに遠出の予定のない森山にかわって、「サウンド・オヴ・ミュージック」最新号が静岡に出張、以下の展示会に参加しております。お近くの方、通りがかりの方はぜひ立ち寄ってみてください。

自由な発想と自由な表現による フリーペーパー展示会
■日時:8.19(sat)~9.10(sun) AM:10:00~PM:19:00
■会場:designers gallery D-Link (静岡市葵区鷹匠2丁目4-40)
■入場:無料


詳細はコチラ。見ていると行きたくなりますね。写真を見ているだけでも、おもしろそうなオーラが漂ってくるではないですか。

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来月のPPFNP、轟渚さんのライヴがあることはすでにお知らせ済みですが、編成が判明しました。轟渚(ヴォーカル)、江藤みどり(フルート)、ジョー長岡(ガットギター)によるアコースティック・ユニット、渚とみどりとジョーにての出演です。たぶん3人がエッジエンドのステージに乗る最大人数だと思われ、ステージ狭しと、といった具合になること必至。お楽しみに。

また、6月に下北のモナレコードでおこなわれた、轟渚と夕映えカルテットのライヴが音源化されることになりました。来月には間に合うのかな? よく分かりませんが、情報をお待ちあれ。

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今月に入ってから通っているのは、フィルムセンターの日活特集、シネマヴェーラの小津特集、三百人劇場のソビエト映画特集。仕事のあとに2本立てを見て帰ってきたりすると、寝るのが遅くなってしまい、そのせいで翌日の昼間の仕事中も眠く、そのあとまた映画館に行ってもやはり眠いままなので、映画を見ながら寝てしまったりする。そして以下同文。ずいぶんと不毛なことをしている。

小津の「秋刀魚の味」、たぶん3回目か4回目くらいだが、妙な映画。なんだかやけっぱちな感じ。そこが遺作らしいといわれればそんな気もする。点在する赤や黄色、目にまぶしい。鈴木清順もかくやと思わせる。木の塀に貼ってある真っ赤なポスターが小林正樹の「切腹」のものだったのには、たぶん初めて気付いた。ヴィデオでは確認できなかったろう。
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by soundofmusic | 2006-08-09 15:34 | 日記 | Comments(0)

日活映画のエキゾチシズムの誕生、かきあげ

フィルムセンターで始まった日活特集。ぱっとプログラムを見る限り、なんだかいつでも見られそうなものばかりで、あまり食指が動かない。しかし、古川卓巳「麻薬3号」、なかなかの佳作。

冒頭、無調っぽいサックスが奏でるマンボだかジャズだかにテルミンが覆いかぶさって無国籍情緒を助長する。闊歩する南田洋子。舞台は神戸だが、まるでモロッコかどこかの港町に見える。

日活が製作を再開したのが1954年。56年には石原裕次郎が登場する。本作の封切りは58年。日活映画と聞いてわれわれがイメージする得体の知れないエキゾチシズムはいつごろから生まれたのだろうか、とふと思う。

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「伊丹万作エッセイ集」(筑摩叢書)を読んでいる(帰りの電車ではだいたい寝ているので、朝の山手線で)。熱心な顔でページの端っこを何箇所も折っている男がいたら、それはわたしだ。あまり折るべき箇所が多いので、本の厚みが1.5倍くらいになってしまっている。

子供を育てたり、部下がいたりするひとは、伊丹の「演技指導論草案」を読むといい。理論と実践の間を行き来するこの断片集は、もともとは映画の演出家のためのもの。あるいは、人生ごときに応用したのではもったいないかもしれない。

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人間がだいたい毎日昼飯を食べるのは、驚くべきことだ。

今日は同僚の鉄井さんに案内されて、そば屋ヘ。いわく、「元フレンチのシェフかなんかがやってるらしくて、ちょっとへんなんですよ」と。着いてみると、a la 麓屋とある。なんだ、何度となくみさかさんが出没しているらしき店じゃないか。そのうち行ってみようとは思っていたのだ。ざるそばにかきあげとちくわ天をつけて、いただく。
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by soundofmusic | 2006-08-04 17:15 | 日記 | Comments(0)