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木曜日、東京、涙雨

木曜日、東京、涙雨_d0000025_16281379.jpg朝、駅に向かって歩きながらふと、そういや涙雨って英語だとなんて言うんだろう、と思い、昼間はバタバタしてて、21時半近くになって桜田門の駅を降りた。今週だけでも何度か足を運んでいるけれど、こちらの都合で行くのはたいてい遅い時間なので有名人のスピーチなどは終わっているし、何か所かで持続的に声が上がっているけれども自分はあまり加わらず(たまに加わる)、1時間くらいその場にいて帰ってくるだけのことが多い。

昨日ふと、自分にとってこれが何かに似ているとしたら、入院しているひとのお見舞いだなと思った。少なくとも自分は「病原菌排除!」「命を守れ!」とか叫んだりはないし、また、専門的な知見でもって医療行為をおこなうわけでもない。もちろん、からかい半分の気分でその場に行くわけでもない。

そもそもお見舞いに実際的な効果があるのか、と考えてみたら、まあ気分的にゼロではない、くらいのところだろう。その場に行って、しばらくいて、病人が元気だったら世間話をして、もしずっと寝ているようだったらたまに手を握ったりして、あとは窓から外の景色を見たりして、家族やお医者さんにあとをまかせて、帰る。いずれにしても、やむにやまれぬ思いと若干の義務感の入り混じった、そんな気持ちをかかえて、自腹でそこに行くのであって、「素人がいたって仕方ないんだから医者にまかせとけ」だとか、「どこから日当が出てるんだ」と言われたところで、きょとんとするしかない。

とはいえ、そこで見ることのできる景色と、音響の広がりと、肌で大気を感じる体験の豊かさに比べると、惜しいことにそこで聞くことのできる言葉は貧弱で、だからこそ、まだまだ可能性がある。わたしが言っているのは、聞くことのできたいくつかのスピーチではなく、いわゆる「コール」のことで、そこで叫ばれている内容には賛成できるものとできないものとが混在しているのだけど、いずれにしてもしばらく連続して聞いていると飽きてくるし、だからこそ、先頭に立って声を上げ続けているひとのスタミナには感服する。

しかし別に同調する必要はないのだ。何度か通ってみてわかったことだけど、なにもあそこにいるひとが全員同じように考え、行動しているわけではない。ひとがいちばん密集している区画ですら、声を出しているひとはせいぜい3人か4人にひとりくらいに見える。そして、駅から現場に歩いていくとすぐわかることは(行かないと絶対にわからないだろう)、ひとは、一点に向かって密集しているわけではないのだ。通行もまばらな道端に、ただぽつんと座っているひとがいる。石段の上に給電所を開いて、スマートフォンやガラケーの充電をできるようにしてくれているひとがいる。喉を涸らした誰かのために飴を配るひとがいる。スローガンの紙を持ってじっと立っているひとがいる。

たくさんの人間が一斉に同じ方向を向いて、同じことをする状態は、たとえその目的がどんなによいことであっても、よくないことだ、とどうしても思ってしまうので、そうした、直接的に声を上げはしないひとの多さを、いつも頼もしく感じる。と同時に、「コール」以外で、この場にふさわしい言葉があるとしたら(ないと困るんだけど)、それははたしてどんなものだろうか、とぼんやり考えている。
by soundofmusic | 2015-09-18 16:28 | 日記


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