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マスター・キーか何かのようなものではないかもしれない何か

こうして毎年、暮れになると、「サウンド・オヴ・ミュージック」のアンケートに入れるつもりでめぼしい本をあわてて読むのが常で、しかしながら、そういうこととは関係なく読むのを楽しみにしていた保坂和志「小説の自由」(新潮社)を、今、読んでいるところ。

小説の自由とはいうからには、当然、その不自由さについてもたっぷりと書かれていて、しかしそれは緻密な分析といったものではなくて、行きつ戻りつする、いかにも小説家的な発想に思える。だからといって説得力がないわけではもちろんなくて、この本は、少なくとも現時点では、ある種の決定打に近いものではないだろうか。

ただし、決定打という言葉を、マスター・キーか何かのようにとってしまってはいけない。

忘れないうちにここであわてて書いておくと、この間、やはり保坂の「書きあぐねている人のための小説入門」(草思社)を読んでいて、ふだん自分が考えていることと重なり合う部分があまりに多いので驚くのを通り越してあきれてしまったことがあった。というのは、ぼくは読んだものがすぐ自分の血や肉になってしまう、つまり、引用した瞬間にそれが自分の意見になりうるという、おそるべき能力を持っているのだ(別にえばれることじゃない)。

実際のところ、今のわたしは別に小説を書いているわけじゃなく、したがって書きあぐねているわけでもないのだけど、書くことがほとんど、立ち止まり、振り返り、呻吟し、停滞し、思考し、また最初からやり直すのと同義であることは知っている。つまり、技術的な困難がもたらす不自由さを。

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「小説の自由」も、まったくこうした余計なことどもを実にいろいろと思い出させてもくれて、たとえば、ぼくは自分が映画を見始めた理由のひとつについてごくひさしぶりに考えることになった。それは、視線の位置と動かし方とでもいうようなことで、ありきたりな比喩で言えば、自分の書くものに必要なのは優秀な撮影監督だ、とでもいうようなことだ。と書くとウソになる。その時点でそう考えていたはずはないのだから。

ともかく、そうして映画を見始めるとそっちのほうがすっかりおもしろくなり、“自分(のもの)を書く”ことなんてまったくどうでもよくなってきて、ここまでいくと自己を相対化しすぎのようでもあるけれど、と同時に、毎日毎晩のように映画のことや音楽のこと、そして本のことを考えていれば、それはそれで仕事のようなもので、それが自分の日々のあり方に反映するのであれば、わざわざ出来の悪い小説のようなものに押しこめる必要もない。

書くこと、に限らず、言葉を使うこと、が人間ならではの営みのひとつであるのはたしかだとしても、そこにはどこか異常なものが口を開けているのじゃないだろうか。昨日ネット上をぶらぶら流していて、ついうっかりブログの書き方かなんかのコラムを読んでしまって(「野良犬」の志村喬のように)あきれかえってしまい、どこにどうあきれたのかあとで考えようと思っていてすっかり忘れていたのだったが、今読み返すと、うむ、とくにおかしいところはない気もする。

しかしまあ、なんというか。ねぇ。ぼくのなんか、きっと悪いブログの見本みたいなもんだろう。コメントがつかないことからも、たぶんそれは証明済みだ。

(森山)
by soundofmusic | 2005-12-22 08:46 | 日記


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