なかなか更新されなかった
フィルムセンターのホームページも一気に刷新されて、待望の年間予定も発表された。今年から地下のホールも積極的に上映に使われるそうだし、もちろん、東京の映画館はフィルムセンターだけじゃない。ラピュタ阿佐ヶ谷にも新文芸坐にも通わなくてはならないのだし、アテネフランセのスケジュールチェックも怠るべきではない。こうなるとやはり、仕事などしている場合ではない、というところに話が落ち着いてしまうのだけど、とにかく、春だ。
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フィルムセンターでは新藤兼人特集が始まっている。自身の監督作と、脚本家としての顔をたどる一大回顧展。まずは監督としての代表作ということになる「裸の島」を再見した。
瀬戸内海の小さな島に住む夫婦(殿山泰司、乙羽信子)と子どもふたりの一家。水のない島から、来る日も来る日も船を出して、本土に水を汲みに行く生活。
雨の日も船で水を汲みに行くあたりは明らかにおかしいのだが、徹底して言葉を削減した構成と、林光による絶妙に叙情的なテーマ曲、そして、カメラと演技、その総合点によって、ぎりぎり傑作たりえているな、という印象。
セリフは、ない。いや、ほとんどないというのが正しい。ルーティーン化した厳しい暮らしは一家から言葉をそぎ落としていき、いわゆるセリフのやり取りはないが、鯛を釣り上げた息子を担ぎ上げた殿山は、「よいしょ」と掛け声をかける。祭囃子や学校で歌われる唱歌は、観客にも聞こえてくる。
問題なのは、新藤が、意図的にかそうでないのか、「言葉が発せられているのに観客には聞こえない状態」(サイレント映画のような)と、「トーキーでセリフがない状態」(しゃべれば聞こえるが、しゃべらせない脚本・演出)とを混同している点だ。
たとえば、子どもの葬儀の際、僧侶の読経は音楽によって隠蔽される。これは一般的な手法だろう。ただ、それに先立ち、乙羽の演じる母親は、病気になった子どもを抱きかかえてはげしく揺さぶり、なおかつ、ひとことも言葉を発しないのだ。名前も呼ばない。これ以上不自然な演出があるだろうか?
乙羽は口が利けないのかもしれない。しかし、葬儀の翌日だろう、いつものように苦労して汲んできた水を畑にぶちまけ、彼女は全身で嗚咽するのだ。
わたしたちは手法の不徹底を見て、「裸の島」を駄作と断じるべきだろうか? 乙羽の嗚咽に心を打たれて、傑作と評すべきだろうか?
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音と音楽に魅力の多くを負っていながら画面の強度だけで勝負しているつもりになり、発せられているセリフを都合のいいところでだけ不自然に音楽で隠蔽しているのだから、すべてのサイレント映画に対する冒涜であるとは言えるはずだ。
映画を見るときは、細部にこそ注目すべきだと考えるけれども、点数をつけるときは全体を評価すべきだ、とも思う。難しいね。
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遅くなっていますが、3月のPPFNPの
セットリスト、不完全版が公開中です。よろしくご参照ください。
(森山)
*追記。リストは完全版に更新されました。(4/11)