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伸びよ汝の舌よ、アリクイの如く

ひさしぶりに書いたら長くなったので、タイトルも無意味な重厚感を醸し出してみます(ハッタリともいう)。

まず連絡。11月24日(土)のPPFNPの情報をアップしました。たいして内容はございませんが、ご覧ください。

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新文芸坐でアルモドバル「ボルベール<帰郷>」と、佐藤祐市「キサラギ」の2本立てを見ました。風の吹きすさぶ中での女だらけの墓掃除と、それに続く、車に荷を積む女たちの尻を強調したショットと。このふたつで、ああ、アルモドバルは完全に映画を知り尽くしているのだなあ、と、彼の映画から何度か受けた感慨をまた思い出すことになり、その幸福感は最後まで持続することになる。

映画を見る幸福とはつまり、細部を味わう快楽でしかありえず、たとえばこの映画ならば、死んだ夫の血をペーパー・タオルで拭き取る際の、白が瞬時に赤を吸い込んでいく様子であり、ひょんなことからレストランを引き継ぐことになったペネロペ・クルスが、(そんなことしてる場合ではないのに!)生き生きと奔走する様子であり濃い色の野菜を刻む手つきでありテーブルに並んだグラスにカクテルを注いでいく動作であり、女たちが力を合わせて巨大な冷蔵庫をえっちらおっちら運ぶ作業であり、死んだはずの母親のおならのにおいがする、と鼻をくんくんさせるペネロペであり、その彼女に見つからぬようにベッドの下に隠れた母親が眺めるペネロペのハイヒールの往復である。

ここにはQBBのマンガ(「中学生日記」だったか?)やらトリュフォーやらヒッチコックを思わせるものがあるけれど、それはまあ、他人の空似だろう。そんなふうに重箱の隅をつつくことは映画を見る幸福とはなんの関係もない。重箱の隅を不信感とともにつつく者にではなく、皿の端っこに残ったソースのようなディテールを、舌ベロをアリクイみたいに長々と伸ばして舐め取る者こそ、映画の美食家と呼ばれるに値する。

クライマックス、TVで放送されているヴィスコンティの「ベリッシマ」を見るシーンがある。不覚にもクレジットを見るまで何の映画か気付かなかったけれど。その「べリッシマ」の中では、アパートの中庭で、ハワード・ホークスの「赤い河」が上映されていたっけ。何十年かしたあと、「ボルベール<帰郷>」を引用する映画は現れるだろうか、そしてわたしはそれを見ることができるだろうか。

なんてことは、映画が続いていくのであれば、実はどうでもいいことのような気もする。そして「キサラギ」も、つまらないということもないが、「ボルベール<帰郷>」の前ではまったくどうでもいいシロモノである。

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池袋から有楽町線で有楽町に移動して会社の健康診断をこなし、日比谷から千代田線で代々木上原に出て、最近立て続けに評判を聞いたロス・パペロテスに寄って、品の良い品揃えを堪能しつつ、なんだ、買うもんないじゃん、とあえて悪態をついてみてから1冊買って、軽く道に迷って25分くらい歩いてたどり着いた駒場博物館で見た特別展「Musica ex Machina -機械じかけの音楽-」が、おもしろかった。無料。

(すでにある)音楽を複製すること、の意味についてはいままでもさんざん考えてきたし、これからも折に触れて思いをめぐらすことになるのだろうけど、それと似ているようでもありまったく別の次元の話でもあるような気もする機械音楽/音楽機械については、ほとんど守備範囲外だったなあと思い至った。

近田春夫がだいぶ前に言っていたことを思い出すならば、その当時ですでに、打ち込みのドラムの音と生音は、それぞれ単体で聴き比べれば区別できるが、曲の一要素として見た場合、判別不可能とのこと。そこからが近田らしい物言いになるのだけど、ではある曲に打ち込みを使うか人力でやるかは、音楽的な思想信条の問題だ、と(そういう言葉づかいはしていなかったけれども)。

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伸びよ汝の舌よ、アリクイの如く_d0000025_164169.jpg18世紀だかそこらには、鳥に歌を教えるための手回しオルガンがヨーロッパで流行していたらしく、教育対象となる鳥の音域にあわせて楽器の仕組みや名前も違っていた、などという事実を知ることができるのも興味深い。

自動演奏といって、穴の開いた紙をセットして演奏させるプレイヤー・ピアノを思い出すひともいるだろうけど、その概念が、現代の音楽制作ソフトウェアに引き継がれているのはおもしろい。なにしろ、なんだかんだ言わずとも、ロールの写真と、PCの画面を見比べていただければすぐ分かる。一目瞭然とはこのこと。

コンピューターによる音楽制作が、かならずしも従来の音楽のフォーマットを忠実に再現することを狙っていないのは誰でも分かると思う。その発想だって、別段新しいものではない。いわゆる楽譜を使わず、自動ピアノ用のロールに直接穿孔(する場所を指示?)することで「作曲」した作曲家についての展示もある。

それっていわば、作曲家が、直接レコードに溝を掘って「作曲」するのと似てる。なんだかわからんが、すげえ。

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会場には、日本語の歌詞を入力し、リズム・パターンやテンポ、雰囲気などを指定すると20秒ほどで自動的に作曲してくれるソフトウェアの展示もある。使用例として、ニュースの文言や天気予報を歌にしたり、あるいは著作権フリーのクラス(階級ではなく、学級ということだろうが)の歌を作ったりすること、が挙げられている。

実際にこれで、今学期の目標、みたいなものを歌にすることを考えてみる。一度でいい曲ができるとは思えないので、クラスのいろんな生徒が、各種のパラメーターをさまざまな組み合わせで入力して、「いい曲」ができてくるまで何度も何度も試すことになるだろう。最終的に、おっ、この曲いいじゃん、とのコンセンサスが得られたとき、その曲を出力させるに至った誰それくん(さん)が、その曲の「作曲者」として認識される可能性は、大いにある。

もっとも、音楽なんて、技術によって進歩してきたわけでもあって、これが何か本質的な変化をもたらすものなのかは、よく分からない。

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こういうのは頭のいいサイボークのひと好みの話題なのかもしれないなあとぼんやり思いながら帰ってきてみると、以前わたしが書いたことに対して、当のそのひとが的確に反応してくれていた(コチラ。テルミン関係の動画も面白いので、ご一読を)。

そもそもわたしが書いたその技術論というのが、自分でもどうも詰め切れていないなあと思いつつ見切り発車で載せたものなので、彼女のご指摘、ありがたくちょうだいしました。音楽と映画の単純比較は危険だ、というのはまったくそのとおりで、しかしやっぱり、上述したように、音楽も種々のテクノロジーを利用したり、それに翻弄されたりして変形を続けてきたのではないかと思ったりもするわけです。

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今週の土曜日です。会場のメスカリートは駒場博物館からたぶん歩いても15分くらい。複製音楽と機械音楽について考える1日にしてみてはいかがでしょうか。

☆「黒の試走車<テストカー>」Vol.9
2007/11/10(土)19:00~23:00
@メスカリート(渋谷)
地図
チャージ:500円+1オーダー(500円)
DJ:マジック、チバ、SZ、az、森山兄
ゲストDJ:有馬ゆえ(カオサー)

「Musica ex Machina -機械じかけの音楽-」の解説リーフレットとハガキ、複数部わしづかみにしてきたので、忘れなければ当日持参します。興味のある方は声かけてくれれば、差し上げます。
by soundofmusic | 2007-11-06 16:42 | 日記


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